「日本海軍少佐今野榮治/90歳からの伝言」/コラムその12

~90歳からの伝言。どんな世でも優しく強い人が正しい~

 今回はちょっと色合いが違いますがご容赦ください。

 私の叔父(父の弟)が昨日逝去しました。

 90歳でした。

 昨年9月に病に倒れ、2ヶ月の入院後退院し自宅で療養しておりましたが、厳しい闘病生活の後帰らぬ人となりました。

 ちょうど私が叔父の自宅にいた時で、呼吸が浅くなって来たのでずっと手を握って励ましていたのですが、しばらくしてそっと眠るように旅立ちました。

 叔父は気骨と品格があり、芯が強く、大正生まれの気概を強く有した立派な人でした。

 子供がいなかったこともあり、特にこの半年はしょっちゅう叔父の元に通い、様々な話をしました。

 叔父が一番好きだったのは叔父の祖父(私の曽祖父)で、よく思い出話となりました。

 叔父は心から祖父を敬愛しており、その思い出を是非とも書き残したいとの話となり、今回記憶を辿りながらネットでの調査なども重ねましたところ、一つの物語が出来ました。

 祖父(曽祖父)は私も子供の頃に何度も会っています。今回叔父から聞いた話は私も知り得なかったことが多く、とても感銘を受けました。

 叔父の一人語りでお贈りします。


 今野榮治氏である。

 私の母が榮治氏の長女であった。私の祖父にあたる。

 私は90歳となった。いつか大好きだった祖父のことを書き残したかった。

 今回思い立ちここに書き残す。

 記憶も曖昧であり、伝聞もあるため正確ではないかも知れないがご容赦いただきたい。


 今野榮治(以下榮治)は明治11年(1878年)3月10日に生まれた。

 今野家は代々仙台の伊達藩の家臣で、鷹匠をしていたと聞いている。

 榮治は福島県の浪江町津島で育った。近年東日本大震災で大きな打撃を受けた場所である。

 16歳で志願し日本海軍に入隊した。

 日清戦争が明治27年(1894年)開戦であるから、正に開戦の頃の入隊であったろう。

 日本がちょうど戦乱に向かう頃、榮治は愛国の徒として命を賭し海軍へ志願したのである。

 入隊時は三等火夫であった。

 釜焚きだ。

 当時の戦艦など海軍の船は石炭を燃料としていた。

 16歳の榮治は来る日も来る日も石炭をくべ続けたのであろう。

 国威がいかに高揚していようとも、榮治少年の日々が過酷であったことは想像に難くない。

 日清戦争の勝戦後、日本は日露戦争へと向かった。

 明治37年(1904年)のことである。当時榮治は26歳。まだまだ若いが海軍入隊後10年が経過していた。

 日露戦争の際にロシアが潜水艇を所有しているという情報を得た日本海軍は、潜水艇の配備を決断した。

 建造技術を持っていなかった日本は、アメリカのエレクトリックボート社製の潜水艇を分解し輸入し、横須賀で再度組み立てた。

 5隻を発注しすべて明治38年(1905年)に竣工したそうだ。

 ホランド型潜水艦(潜水艇)である。

 完成は日露戦争終結後のため戦績は残されていない。

 しかし、日本初の潜水艇の発注や竣工に榮治が大きく関わったことは間違いない。

 母から榮治のこんなエピソードを聞いたことがある。

 第一号の潜水艇の乗組員だった榮治は、訓練中に大きなトラブルに見舞われた。

 潜行訓練中沈下したまま浮上しなくなってしまったのである。

 全員必死で対処するも復旧は叶わず、酸素も尽きかけた。

 艇長は総員を潜望鏡の下に集合させ、死を覚悟するよう説諭した。

 絶体絶命で、もう誰もがどうにもなるまいと諦めていたのだ。

 その時の乗組員の心情は察するに余りある。

 国の為に戦闘に命を落とすならまだいい。

 しかし訓練中である。

 日本初の潜水艇を無駄に失うことへの悔恨も深かったろう。

 しかしその時立ち上がったのが榮治である。

 榮治は部下1名を引き連れ黙ってその場を離れ、懐中電灯を頼りにエンジンルームへ潜り込むと、一刻一刻と酸素が切れかけるその中で、必死にエンジンの総点検を始めた。

 すると、電気系統の、絶対に水が入っていけない箇所への浸水を発見した。

 そしてそこから水を抜くと、何と潜水艇のエンジンが再点火し浮上し始めたのである。

 助かったのだ・・・。


 潜水艇の事故で有名なのは明治43年に起きた第六潜水艇での事件である。

 後に教科書にも載り私も記憶している「佐久間艇事件」だ。

 初の国産潜水艇であった第六潜水艇は広島の呉で訓練中に浸水し海底に没したまま、乗組員14人が亡くなっている。

 その際12名がそれぞれの持ち場を離れずに亡くなり、2名は修理箇所に取りついたまま死亡していたことで、最後まで諦めない精神が日本海軍の誇りと称賛されているのである。

 正にこの事件と同様のことが、一号艇でも起きていたのだ・・・。

 榮治の不屈の精神がこの事故を史実から消していると言えよう。

 すべての発明や開発には事故がつきまとう。

 事故を糧として新たな開発が行われることは周知の事実だ。

 しかし、そこには人間の尊い犠牲があることを私たちは忘れてはならない。

 六号艇の事故のご家族の悲しみや、その後の人生を思えば本当に胸が詰まる。

 榮治がもし事故で命を落としていたなら、私のその後の人生も大きく変遷していたであろう。

 国立公文書館デジタルアーカイブ、アジア歴史資料センターなどで、榮治の足跡を追った。

 様々な経歴書や叙勲の書類などを見つけることが出来た。
 
 フランスに潜水艇の艤装業務に赴いたり、戦艦春日に搭乗したり、様々な活躍の痕跡も見つけることが出来た。

 そしてその中に少佐任命の書面を発見した。




 榮治は少佐となっていたのだ。

 当時の日本海軍においては、叩き上げでは大尉までしか任用されないと聞いた。

 かつて、日本海軍の歴史の中で、三等火夫から少佐まで登ったのは2名のみと聞いたように記憶している。

 その一人が榮治なのだ。
(※ネット上で、日本海軍では昭和19年に3名が初めて叩き上げから中佐に任用され、それが最高位という記事を見つけた。榮治が任用された昭和4年においては少佐が最高位であったものと考えられる。写真では機関少佐とあるが、階級が兵科、機関科に分かれており、榮治が技術職であったことを表している)

 正に榮治の類稀なる資質と努力の賜物であろう。

 そして何と言っても「どんな困難に直面しようとも絶対に諦めない」という強靭な精神力がその地位を作ったことは間違いない。

 そしてどうしても伝えたいことがある。

 榮治の人柄である。

 私は榮治には本当に可愛がってもらった。

 サンタクロースのように長い白鬚を生やしており、ニコニコいつも笑っていた。

 優しい優しい祖父であった。

 私もこうなりたいと願った。

 人に優しく、いつも笑って、しかし胸の中には不屈の魂を隠し持つ、そんな人間に、である。

 榮治は海軍という上下関係の厳しい過酷な組織にあっても、自分を失うことはなかったろうと思う。

 このような組織にあっては、シゴキのようなことは日常茶飯事だ。

 人間の弱さが権力を振りかざすのだ。

 本当に強い人間は誰にも優しく出来る。

 現代の企業においても同様である。

 パワハラと呼ばれる様々な事件は権力を有した人間の哀しいまでの弱さから発せられているのである。

 榮治は違う。

 榮治は優しいから強いのだ。

 私は榮治の血筋を受け継いでいる。

 私も幾らかでも榮治のようにありたいと願い生きて来た。

 さて、私はどこまで出来たろうか。

 弱い人間が強がることで、一体どれだけの争いや諍いが起き無為な犠牲が払われて来たのか。

 そのことを思うと胸が痛む。

 どなたが私のような老人の話を聞いてくださっているのか知るべくもない。

 しかし私はこのことだけはどうしても伝えたいのだ。

 どんな世でも優しく強い人間こそが正しい。

 そのことを榮治が自分の人生を通して、そっと私に教えてくれたのだから・・・。